こんにちは、Yoshiです!
当ブログのコンセプトでもある 、“柔術と旅する”人に焦点を当てる取材企画・柔術旅人インタビュー。
記念すべき一回目は、タイ、ブラジル、アメリカと渡り歩き、各地で柔術に励んできたトライフォース東中野の坂野開さん(@ikanokasa)にお話をうかがいました。
仕事に追われる生活から抜け出して海外へ飛び出し、“柔術”と“旅”を通して各国の文化や生活観の違いを肌で感じてきた坂野さんですが、恵まれた日本とは違った過酷な環境の中では柔術以外の部分でも得られるものが多かったそうです。
全三編、今回は坂野さんの今に至るまでの経歴についてうかがった[前編]です。ぜひ最後までご覧ください。
坂野開さんのプロフィール
坂野開さんインタビュー 全目次
−前編− 【今回の記事はこちら】
−中編−
−後編−
柔術を始めたきっかけ
最初はただ運動不足解消のため
まずは柔術を始めたきっかけを教えてください。
元々サッカーを小学一年から高校三年までの12年間やっていて、高校を卒業して川崎で仕事をし始めたんですよ。今までずっと運動をしていたのにしなくなって、また何かやりたいなってときに家の近くに柔術ジム・飛翔塾SORAがあったから、そこに通い始めたという感じですね。部活を引退してから少しだけ地元の総合格闘技ジムに通った時期があって、そのときに寝技おもしろいなと思っていたので、それも始めた理由の一つです。あとはまぁ川崎だから…、戦えた方がいいかなと。笑
なるほど、確かにそうかもしれないですね。笑
はい、まぁたまたまそこしかなかったというのもありますけど。でも、やり始めた当初の仕事は出張の多い仕事で、一年の半分以上は家にいなかったから月一、二くらいの練習しかしていなかったですね。で、たまに帰ってきてまとまった時間があったら週5行ったり。そんな感じで練習量にはムラがありましたね。だから全然強くはなかったです。
出張で転々としながら練習する日々
それはまだ始めてすぐの頃でしょうか?
いや、最初の2年くらいはそんな感じでしたね。で、始めて2年半くらい経ってから試合に出るようになって、出張先でも時間を見つけて練習するようになって。縁があってパラエストラ大阪やNR柔術に行きましたね。その頃に、あるとき湾岸高速道路(首都高速湾岸線)でトラックを運転していて、事故ったんですよ。フジテレビの前でズドーン突っ込んで、靭帯ほとんどぶっ壊れて救急搬送されるみたいなけっこう大きな事故で。で、仕事も柔術もできない期間が半年間くらい続きました。
事故により大怪我を負う
それで、半年後仕事に復帰してから約一年間の石川出張を命じられて、怪我も治ったのに練習できないじゃん…!って思っていたら出張先の住居がCBインパクトの超近くで。そこからですね、仕事終わって、ちょっと寝て、練習行って、またちょっと寝て、仕事行って、、、っていう風に、やっと毎日練習できる状態になったのは。で、たまに3連休とかがあるときとかに帰ってきて、東京で試合出て。という感じで、やっと柔術をコンスタントにできるようになりましたね。
ちなみに仕事は何をされていたんですか?
仕事は電気系の仕事です。普通の低圧の仕事じゃなくて、特別高圧のケーブルを繋げる仕事…って言ってもわからないと思うんですけど、とにかく街を動かすようなでっかい電気を送るケーブルの接続だけをする仕事なんですよ。コンセントみたいに差して終わりじゃなくて、爆発しないようにいろいろしないといけないんですよね。それが道路の下にあったり、鉄塔の上にあったり下にあったり、変電所にあったり原発にあったりするから、全国を回らないといけない。特殊な仕事でできる人が多いわけじゃないから、各地から呼ばれて出張が多かったわけです。
坂野さんの前の職場
退職を決意、約三ヶ月間の柔術旅へ
そんな生活に区切りをつけ、海外へ渡ると決めたのはなぜでしょうか?
ずっとやめたいなとは思っていたんですよ仕事を。でも、大きな事故を起こしたことで会社にも損害を出してしまったから、それで申し訳ないなという気持ちがあって復帰後一年は勤めようと思っていて。だから、出張が終わって帰ってきてから、もう4年もやったしやめようと思ってやめました。で、やめるって決めてから、ブラジル行こうと。笑
それも飛翔塾SORAの先生がブラジルに行っていた人だったから、その考えを話してみたら「行ってきなよ、行った方が良いよ。」と言って背中を押してくれましたし、仕事やめたタイミングぐらいしか行く時間ないじゃないですが、学生じゃないから。だからじゃあもう行っちゃおうかなーと思って行くことに決めました。
仕事をやめ、タイへと渡る
それで本場ブラジルに行って修行をしたと。
いや、最初はブラジルだけ行くつもりだったんですけど、実はその前に一ヶ月くらいタイに行ってて。地元の総合格闘技ジムに通っていた頃の人たちともずっと仲が良かったんですけど、その中にタイガームエタイに所属していた山田哲也選手がいたんですよ。
その人に「タイ来ないの?」って言われて、じゃあ仕事やめたらまずタイ行こーってなって、タイに渡ってタイガームエタイで柔術とグラップリング、レスリングをやりました。あとキックボクシングも体験くらいの感じで。
帰国して一週間後、本場ブラジルへ
では、タイから帰国して本命のブラジルに渡ったわけですね。
はい、帰ってきて一週間も経たずブラジルに渡りました。ちなみにそれまではまだ白帯です。タイから帰ってきてから2,3日して、所属ジム飛翔塾SORAの毎年の恒例行事で群馬のインファイトに練習に行って。そこで練習したあと、サプライズ的に青帯をもらいました。全員に帯叩きをされて背中は真っ赤。次の日飛行機だったので、背中がかゆい中30時間飛行機に乗りました(笑)
ブラジルではどの街、どこのジムで練習したのでしょうか?
ブラジルではサンパウロに約二ヶ月半、マナウスというところに一週間滞在しました。サンパウロでは飛翔塾の先生が行っていたバルボーザ道場へ、マナウスも先生に勧められて行って、歩いていてたまたま見つけたジムに通いました。で、帰国前の最後の一週間は旅のおまけ程度でニューヨークに行きましたね。Unity(ユニティ)に行きたかったので。もうこんな機会ないだろうなと思って。練習は4日間くらいしましたね。
この後またアメリカに渡ることになると思いますが、そのときはまったく考えていなかったのでしょうか?
そうそう、就職先も決まっていたし、こういうことはできるのはもう最後かなと思っていました。どうせ帰国したらまたずっと働くことになるんだろうなと思っていましたし。だからアメリカだけじゃないですけど、タイやブラジルへの旅も含めて全部旅行みたいなもんですよね。修学旅行や卒業旅行みたいな。高校出てから働き始めて4年、同い年の大学生が卒業するくらいの年だったので、働き始める前の最後の卒業旅行みたいな、そんな気分で行ってましたね。
なるほど、それが今柔術を仕事にしているとは思わなかったでしょうね。
ですね、まったく思わなかったです。だからそのときは修行、練習のためって言うよりかは本当に遊び感覚で、出稽古して、観光もして、って感じでしたね。
日本での生活
では帰国後の生活について教えてください。
ブラジルから帰ってきてからは普通に仕事を始めて。それは出張もないし、ある程度定時で終わるような仕事だったから、仕事が終わったら週5,6で練習行って、というのをやっとできるようになった感じですね。
そこにたどり着くまでが長かったですね。それまでは毎日柔術にたずさわる今の生活とは真逆と言えるのでは。
そう、だから今考えればあの4年間はほぼほぼやっていないに等しいですよね。何より今仕事にできていることがびっくりです(笑)
ちなみにその当時の仕事はどんな仕事だったのでしょうか。
産業廃棄物のトラックの運転手ですね。企業が出したゴミを回収して、自分とこの焼却工場に持って帰る運搬の仕事ですね。この仕事は一年くらい続けました。ただ正直、基本的に誰でもできる仕事でおもしろくもなかったので、20代前半の自分がやり続けるのもどうかなと。何よりこの生活を送るまま死にたくないな。と思って。そこから仕事をやめてジムに住み始めました。
道場に住み込みバイト生活
ジムに住むというのはなかなかの決断ですね。
柔術だけやりたいなと。でも生活費は稼がないといけないから、バイトしながら柔術しようかなとなったんですけど、それだったら当時住んでいた家の家賃はきついなと。それまでの仕事は手取りで35万はもらえていたんで、バイトの給料だともう払えない。
で、どこ住もうかな…となっていたときに「ここ住んでいいっすか?」とジムの先生に聞いたら「えーよ。」と(笑)先生も元々ジムに住んでいた人だったから普通にOKしてくれて。それから柔術着と、スーツケース一個に入る分の着る服ちょろっとだけ残して前の家の物は全部捨てました。
スーツケースに全ての所有物が入っている状態と。
そうです。プレステ4とかも持っていたんですけどそういうのも売ったりあげたりしました。炊飯器とかはジムで使えたからそういうのは持っていきましたね。ジムに移り住んでからは柔術しながら、バイトして、柔術して、と、その生活を8ヶ月くらい。今の嫁にそのバイト先で出会って、嫁の家に入り浸るようになったから自然と住まなくなりましたね。
ちなみにバイトはどんなバイトをしていたのでしょうか?
ティップネスっていうスポーツジムで、筋トレ教えたり、あとはキッズのスイミングコーチをしていました。
すでに職歴だけでもすごいですね。
そうですね、情報量が多くなっちゃってすみません。(笑)
コロナ禍の中大会へ多数出場
ブラジルから帰ってまたアメリカへ行くまでの2年間はけっこう大会にも出られましたか?
めっちゃ出まくってましたね。東日本、SJJJFの全日本やアジアって感じで。で、そのSJJJFの全日本は階級別で当時パトスタジオ所属の福島選手にやられちゃったんですけど、無差別は奇跡が起きちゃって優勝しました(笑)今は同じトライフォース所属の木村さんに決勝戦で勝って。
あのエントリーリストすごいことになっていましたもんね。
引用元:第3回 全日本柔術選手権(SJJJF 3RD ALL JAPAN JIU JITSU CHAMPIONSHIP 2020) Competitors by Division Male Adult
そうそう、ちょうどこの前柔道の大きな大会(全日本学生体重別選手権)で優勝した中島瑞貴くんとかもいて。
あと次の年はUNRIVALEDやJBJJFの全日本、あと他の小さい大会とかにも出て、今活躍している人だと萩原くんとか内田さんと試合したりしました。内田さんはめちゃくちゃ対策したって言ってましたね、当時なんか勝ちまくっていたからか。
当時坂野さんが対戦したお二方
ちなみにアメリカに行こうと思い立ったのはいつ頃でしょうか?
それは運搬の仕事をやめたときにはなんとなく思っていましたね、デイジーフレッシュ(ペディゴ・サブミッション・ファイティング)に行きたいなって。で、仕事やめたんですけど、その時期ちょうどコロナが流行り始めた一年目の年の終わり頃だったから、行きたいけど行けないしなと。それで1年待って、日本はまだまだだったけどアメリカはもう普通の生活に戻りつつあったから、よし今だと思って行きました。なのでコロナのせいでずれただけで早い時期から行こうとは思っていましたね。
デイジーフレッシュ(ペディゴ・サブミッション・ファイティング)とは、アメリカ・イリノイ州マウントバーノンを本拠地とするヒース・ペディゴ率いる柔術チーム。移転前は片田舎の廃コインランドリー屋内にマットを敷いただけの粗末な道場に寝泊りし組み技を磨く集団として知られ異彩を放っていた。
ちなみにデイジーフレッシュに惹かれた理由とはなんだったんでしょうか?
そうですね、まぁ自分もジムに住んだりしたから、アメリカにも自分と同じようなことをしている集団がいるなと。あ、なんか同じだな、と思って。しかも一人じゃなくてみんなでやっているのがおもしろいなと思ったので。その様子をYouTubeで見たんですよ。でカッケーって。あれ見た方がいいですよ。
アメリカ・デイジーフレッシュへ
ロスパッケージから始まった生活
1年間のコロナ待機期間を経て、ようやくまたアメリカへと渡れたわけですね。
そうなんですけど、始めからトラブル続きでしたねアメリカは。まず着いた時、僕荷物が届かなかったんですよ、ロスパッケージして。12日間くらい届かずそれで荷物はリュックだけ。柔術着も服もなし。しかも外出たら10年に一度の大雪でしたからね。でも事前に連絡していたからデイジーフレッシュの人が迎えに来てくれて、なんもないって言ったら服とか寝袋とか貸してくれましたね。そういう事情で柔術着も最初は貸してもらってました。
面識もないのにみんな優しいですね。
めっちゃ優しい。なんなら本来迎えに来る人も大雪で来れなくて、四駆に乗ってた他の人が来てくれたんですよ。本当に人に助けられたなって思いましたねめっちゃ。
極寒のデイジーフレッシュで三ヶ月修行
それからデイジーフレッシュでの修行が始まるわけですね。
はい、デイジーフレッシュには三ヶ月いましたね。動画で見た通りジムにマットレス敷いて寝泊まりする環境で。とにかくめちゃくちゃ寒くて、練習内容もきつかったですけど、それより環境的にかなり辛かったですね。何回か病気にもなったし。練習は基本的に月〜木曜日にやって、週末は車に乗ってアメリカ各地の大会に参加したりスタッフの仕事しにいくっていう生活でしたね。しんどい生活でしたけど、まぁ今となってはいい思い出っすよ(笑)
そんな過酷な環境だったんですね、病気にまで。アメリカ到着時からしんどいこと続きだったんですね。
そう、だったんですけど、帰るときがもっとひどかったんですよ。街の空港まで向かうんですけど、連れて行ってくれた人が道間違えたりして飛行機乗り遅れたんですよ。で、乗って、シカゴ経由でロサンゼルス行って。そこから国際線だったんですけど、コロナの陰性証明が必要だったから提出したら書面の日付を医者が間違えていて。
72時間以内の陰性証明じゃないといけないから乗れず。それでその近くのPCR検査場に行って15,000円くらいかけて取り直し。それで次の日の飛行機に乗って、やっと日本帰れる!と思ったらエンジン故障で降ろされて。で、また次の日の飛行機に乗ってやっと帰れました。職員が2回乗れなかったことを知ってくれていたので、最後の飛行機はビジネスクラスに乗せてくれましたね(笑)
それはさんざんですね…。
まぁでも旅はだからおもしろいんですよ、予想外のことがあるから。うまくいくことなんてそんなないですからね。
旅を終え、現在
その後トライフォース東中野(株式会社ガナビー)に入社されたわけですね。どの時点で求人に応募したのでしょうか?
帰る一週間前とかですね。前と違って仕事決めずに来ていたこともあったので、アメリカにいるうちに仕事を探し出したんですよ。それでIndeedでガナビーの求人を見つけてメールしました。
念願叶って柔術を仕事にできると。
というよりかは、病気とかもして思ったよりお金使っちゃったんで、お金ないじゃん、仕事しなきゃ、ってなって(笑)でも前していたような仕事はもうしたくないしな、柔術って仕事にならないのかなって思っていたときに調べたら出てきた感じです。
タイミングが良かったんですね。
びっくりしましたねあれは。
確か入社されたのはガナビーが求人を出した直後くらいだったかと思います。ちょっとタイミングがずれていたら見つけられていなかったですね。
あそうなんですか、前まで出してなかったんですね。それに関しては縁があったんじゃないですかね(笑)
確かに何かの縁があったんですね。では入社した後と、今の生活について簡単に教えてください。
5月にアメリカから帰ってから面接して合格して。で6月に入社しました。で今の日常としては、トライフォース東中野で常駐スタッフとして働きながら自分のクラスをいくつか持ってインストラクションをしつつ、参加できるときはトライフォースのコンペ練に参加して練習しています。
柔術が精神面に及ぼすプラスな影響についてつづられた書籍。PART5:現役柔術家インタビューで坂野さんのインタビューが掲載されています。
コメント
コメント一覧 (2件)
こう言う記事を読むと…
(良いなぁ海外も行ってみたいなあ)と言う気持ちになりますね✨
そしてそんな素敵な体験をした方に、会いに行ってみたくなります
トライフォース東中野にも興味出ました🎵
僕も取材していてまた海外に行きたくなりました!
坂野さんの話はおもしろいので是非直接聞いて見たください!
本人もまだまだ話し足りなさそうなので!笑