ブラジリアン柔術を始めよう。
そう思い立ち、地元に帰ったぼくは県内唯一のブラジリアン柔術サークル、福井ブラジリアン柔術クラブを訪ねました。
雨が降りしきる中、バイクで家から遠く離れた越前市武道館へ。
そして、彼に再会することになりました。
“柔道界の爪弾きもの”との再会
−−−彼、とは、先に言ってしまうと僕が柔術を始める一つのきっかけになったやつのことです。
そう、前々回の記事にすでに登場している新人戦の惨劇を起こした彼ですね。(以降、Pと称します。)
実はブラジリアン柔術を始めた理由としては彼の影響も大きくありました。
Pと高校時代に知り合っていたから福井でブラジリアン柔術ができること(=福井ブラジリアン柔術クラブの存在)を知っていましたし、何より知り合いがいた方が続くだろうと思ったからです。
なので、Pがいなかったらブラジリアン柔術を始めていなかった可能性は大いにあるでしょう。
そんなPには事前に行くことを伝えておらず、なんなら会うのも高校以来。
久しぶりに会ってあいさつしたところ、名前を覚えてくれていませんでした。
…まぁ、そんなものでしょう。彼と違って特別印象に残るやつではなかったですからね僕は…。小声
名前を思い出させたところで、軽く会話をして練習へ参加。
やはり知り合いがいると入っていきやすく、その日入会を決めました。
遥か高みにいた“福井柔術界のホープ”
こうして、いよいよブラジリアン柔術を始めることになった僕。
入会後、まず驚いたことは、諸々の理由から福井柔道界からは爪弾きもの扱いされていたPが、同サークル内では代表に次ぐ実力者であり、「エース」と呼ばれていたことでした。
帯はすでに紫帯。
大会では入賞も数多く経験しており、現在黒帯のトップ戦線にいる選手とはこの頃何度も試合をしていたようでした。
その活躍によりチームからの期待を大いに集め、その姿はまさに“福井柔術界のホープ”。
高校柔道部だった頃とはあまりにも対照的な姿でした。
当時は同士だったPが、この世界ではとても高みにいる様な気がしました。
そして、柔術の練習はと言えば、最初は正直とても地味に感じました。
特に声を出すこともなく、黙々と打ち込む姿は、他の格闘技では見たことがないもの。
しかし印象的だったのは、全員がわきあいあいと、とても楽しそうにしていたことでした。
それを見て、確か2年前体験にいったときもそうだったなと、なんとなく思い出しました。
そして、もっと柔術を知りたくなり、入会後すぐに教則本を購入。
Amazonで一番上に出てきた本で、レビューも高かったので迷うこともありませんでした。
それが、トライフォース柔術アカデミー代表・早川先生の著書、『ブラジリアン柔術教則本』です。
本を開くと、テクニックがぎっしり載っており、こんな数のテクニックがあるのかと圧倒されました。
しかしそれ以上に印象的だったのは、著者である早川先生が自分と同じ歳の頃に柔術を始めていたこと。
21歳で競技を始めるのは、早い方ではない。
楽しむ分にはいいかもしれないが、それなりに強くなるにはもう少し若くなければならないのではないか。
当時そう思っていた僕は、早川先生が同じ頃に柔術を始めたと言うのを知り、まだ自分も強くなれるのではないか?という希望が持てたのです。
それからよりいっそうやる気になり練習に励むも、やはり柔道の動きでは対処しきれず。
しかし先生からのアドバイスを聞き、先生やPの動きをよく観察したことで、柔道の寝技以上に柔軟な動きが必要であることに気がつけました。
また、先生は「ガード」が何よりも大切であると日頃から言っていたので、正解がわからないながらも柔軟なガードを意識して練習するようになりました。
するとそのおかげか、早い段階でサイドロール、インバーテッドガードなど、いわゆる柔術的な動きに慣れることができたのです。
そして始めて間もない頃から、たまに練習に来てくださる黒帯の先生からほめていただくこともあり、それがとても嬉しかった。
柔道では認められなかった自分の動きが柔術では認められ評価される。
今までどんなスポーツをやってもパッとしなかった僕にとって、それは何よりも嬉しかったです。
自分でも認められる世界があったんだと気づき、僕はよりいっそう柔術にのめり込んでいきました。
柔術大会への挑戦
そして柔術を初めて3ヶ月目、初めて大会に出ることになりました。
前日は緊張で眠れなかったし、試合会場では試合前何度もトイレにいきました。。。笑
しかしその大会では、なんとか準優勝。
セコンドのPの助けもあり、デビュー戦でなんとか2試合の勝利をつかむことができました。
そしてその3ヶ月後、なおのこと意欲が出てきて挑んだパラエストラ大阪主催の昼柔術カップ。
こちらは白帯カテゴリーの体重無差別の三つ巴戦となり、なんとか二回勝って優秀賞に輝けました。
そしてその後、福井を離れる計画があった僕は、22歳の誕生日、福井ブラジリアン柔術クラブとしては最後の大会に出ることに。
しかし階級別は2回戦敗退。3位決定戦も前回大会で勝った相手に負け。
変に意気込んでしまったことで過剰に緊張してしまい、まったく動けなかったためです。
それが悔しくてふっ切れたその後の無差別級では、初戦不戦勝、2戦目はミドルヘビー級優勝者と対戦し、中盤までポイントリードされたものの初めてやってみた飛び関節がうまくきまりました。
そして逆転勝ち。
まさかの飛び関節での勝利に、自分自身驚きを隠せませんでした。
そして決勝は、最上量級の優勝者。
結果としては負けてしまったものの、時間いっぱい戦ったことからか会場には拍手が起こり、そして審判の方が手を上げるとき「強かった。」という言葉をかけてくれて、それがとても嬉しかったです。
大会後の練習では階級別の悔しさが思いだされて自然と涙が込み上げてきましたが…笑
そんなことを思い返すと、悔しくて泣くほどに熱中できたものも、それまではなかったなぁと改めて思います。
その後
−−−その後。
僕はかねてから計画していた通り、フィリピン・セブ島に渡りました。
そしてエースのP君はと言えば、就職活動を終え、最後に有終の美を飾るように有名選手に勝った後、社会人になって柔術を引退。
警察官をやめ柔術を始めた僕とは対照的に、彼は柔術をやめ警察官になりました。
−−−そんなこんなで、柔術を初めて半年があっという間に過ぎ、それ以前の生活とは打って変わって充実した毎日を過ごせるようになりました。
初めて半年が経った頃には柔術を始めてよかったなと、心から思えるようになっていたのです。
では最後に、そんな柔術に対する気持ちをさらっと書いて終わろうと思います。
当時僕は21歳でしたが、周りの若者と違ってあまり物事に楽しさを見出だせない人間でした。
例えば、複数人で集まってワイワイしたりだとか、異性と話したりだとか、そういったことに楽しさを感じなかった人間です。
昔から大人しく、学生の頃からスポーツ音痴で、みんなが好きな体育は苦痛でしかなかった人間です。
うるさい場所は苦手だし、クラブやフェスなどはもっての外。
楽しいと心から感じ、自分を解放できる場所がどこにもありませんでした。
しかし唯一楽しいと感じたのが格闘技であり、柔術でした。
柔術には沢山の魅力がありますが、特に僕は自分を開放できることに大きな喜びを感じます。
柔術をしている時だけは、余計なことを考えず、本能のまま、自分むき出しの姿を見せられます。
気分はハイになり、心から楽しいと感じられます。
それがこの上なくよろこばしいと思うのです。
なので、柔術をやめることは考えられません。
自分にとってそれは居場所を失うことを意味するからです。
−−−だから今は、柔術をとにかく楽しもうと思っています。
その後の経験からも、改めて僕にとって柔術は何よりも楽しいものなのだと気がつけたからです。
柔術は僕にとって、自信をくれるものであり、居場所を与えてくれるもの。
言うなれば柔術は、僕にとって「希望の格闘技」であるのです。
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