ブラジリアン柔術。
というマイナー格闘技を意識するようになったのはいつの頃だったでしょうか?
僕の場合、存在自体はわりと前から知っていましたが、おそらくはっきりとその存在を意識したのは高校生の頃だったと思います。
確か最初の出会いは、高校2年生の頃でした。
高校デビュー、入部先は弱小柔道部
−−−2011年4月、地元の高校に入学。
警察官を志していた僕は、どの道必要になるだろうと思い柔道部に入部しました。
運動神経が悪く中学生のころ美術部だった僕にとって、その決断はわりと覚悟が必要で、かなり緊張しながら入部したのを覚えています。
いわゆる柔道部物語みたいな、男臭い体育会系の世界を想像していたからです。
引用元:柔道部物語
しかし入部してみると実際そんなことはなく、フタを開けてみると県内でも有数の超弱小校。
体育会系とはほど遠い、とてもゆるーい雰囲気でした。
まず違和感を覚えたのが、入部した日かその数日後だったかの話。
緊張してビクビクしながら校内の武道館に入って行くと、先輩たちは楽しそうにテニスをしていたのです。
え…、ここ柔道部だよな…。
唖然とする僕。
一瞬そこが柔道部かどうかを疑わずにはいられませんでした。
さらにその絵に描いたような不真面目さはやはり練習姿勢にも表れていて、練習は立技の打ち込みから始め、ちょっと乱取りをしてさっさと帰るのがいつもの日課。
寝技なんてたまに来る顧問の先生がいるときしかやらずでした。
日によっては気分次第で練習をせず帰ってしまい、新入部員の僕一人残されたので仕方なく一人エビとか逆エビの練習をしていたこともありました。
(さすがにまだ真面目だった女子の先輩方がその事態を見かねて基本的な動きを教えてくれたのでよかったけど。)
さらに大会会場でもその不真面目さを隠す様子はなく、自分たちの試合が終われば仲間の応援はせずに観覧席に戻り、終わった終わったとばかりにすぐ着替え、早く帰りてーなという態度丸出しでだらける姿を他校に堂々とさらす始末。
我が母校ながら、弱小校たる所以はさすがでした。
新体制になり他校との交流増加
そんな不真面目きわまりない先輩たちでしたが、入部して一年後に総体を終え全員引退となり、残された僕は部長になりました。
ちなみに実力的なところで部長になれたわけではなく、僕の学年が男女一名ずつしかいなかったため僕がなるしかなかったからです。
そしてその春、期待を持って迎えた新入部員は2人のみ。
部員数は計4名。
強い新入部員が入ったわけでもなかったので、相変わらず弱々の柔道部。
しかし部長になってしまったので、せめて練習はちゃんとするようにしたいと思い、新体制になったの機に寝技の練習も始めました。
先輩たちの影響から寝技はつまらないものという印象が強かったので最初はやっていて苦痛でしたが、一年ほど経った頃にはやっとなんとなくだけおもしろみを感じられるようになっていました。
また、人数が少なかったことと、部がそれなりにやる気になったことを先生が察してか、他校との合同練習の機会も増加。
もちろん強豪校と…ではなく、同じく人数の少ない弱小校同士で。
しかしそのおかげで他校との交流が格段に増え、そのうち学校同士も仲良くなり、大会では複数の仲良い高校同士でいる時間もかなり増えました。
そして、そんな中に、彼はいたのです。
ブラジリアン柔術家、現る。
−−−彼、とは、先に言ってしまうと僕が柔術を始める一つのきっかけになったやつのことです。
まぁ実際始めたのはこのもっとあとのことなんですが。
彼との出会いはいつだったでしょうか。
はっきりとは覚えていませんが、合同練習の機会が増え、部員同士いつの間にか仲良くなっていて、そんな中に彼もいた、という感じだったと思います。たぶん。
ひょうひょうとした性格で、強いやつ感を出すためだけにファッション感覚で足にテーピングを巻くような、なかなかにおもしろいやつでした。
一見どこにでもいるような高校生で、どこにでもいるような柔道白帯。
…だったのですが、彼には他の柔道部員とは明らかに違う要素がありました。
そう、ブラジリアン柔術をやっていたのです。
当時は始めて間もなかったからなのか、はたまた練習では隠していたからなのか、際立って見えたものはなかったですが、しかしなんとなーくだけその危険性をただよわせていました。
なんかただ者じゃなさそうな奴。
それが最初の印象だった気がします。
新人戦の惨劇
そんなただ者じゃなそうな彼が地元福井の高校柔道界で存在感を表したのは忘れもしない高2の新人戦、無段の部でのことでした。
階級問わず県内の白帯が一同に会し優勝を争う一大トーナメント。
このトーナメントにおいて彼はなんと、容赦なく飛び関節を使いまくったのです。
さながら若かりし頃の青木真也のように。
相手が誰であろうと、飛び関節を放ちまくる彼。
柔道の試合をしに来たのに、無残にも飛び関節の前に散っていく白帯たち。
そこに一切の慈悲はなく、ある意味かなり凄惨な光景だったように思います。
当然柔道の経験すら少ない白帯たちであるので、もちろん柔術の技になど対応できるはずもなく、腕を極められまくり、試合後痛めた腕に氷を当てていた姿は正直ちょっとかわいそうでした。
結局彼は決勝戦で負けてしまったものの残したインパクトは絶大で、誰しもが
こいつ、ヤベェ奴だ。
そう思ったはずです。
もちろん僕も思いました。
(ちなみに決勝が始まる頃になると彼を応援する人は彼のチームメイト以外(僕を含めて)誰もおらず、“外敵”柔術vs柔道という構図になっており一人超アウェイになっていました。)
また、国際大会でも優勝するようなカデ(=15歳から17歳の)強化選手が対戦相手だったときも、相も変わらず、彼は躊躇なく飛び関節をしかけまくりました。
正気の沙汰じゃない。
新人戦のときと同様、見ていた全員がそう思ったはずです。
会場には一気に緊張感がただよいました。
極められるかどうかのMMA的な緊張感ではなく、おいおいこいつ世界カデ王者相手にマジかよ、、、といった、ピリピリとした緊張感です。
(実際カデ王者様もかなりイラだっていたのが見る人全員に伝わりました。)
会場の空気は、とても冷えきっていました−−−。
ブラジリアン柔術家、柔道界を去る。
結果としてさすがに勝ち星は上げられなかったものの、そのチャレンジは業界の人から目をつけられるには充分すぎるものだったでしょう。
前代未聞の、飛び関節に全てをかけた大博打だったのですから。
そんなある意味記憶に残る活躍を見せた彼でしたが、引退を前に柔道界にいづらさを感じてか、総体の季節を迎えることなく人知れず柔道界を去りました。
“柔道界の爪弾き者”
まさに、そんな様子だったように思います。
そして僕の頭には、あいつヤベェ奴だったなと言う記憶と、柔術ってヤベェ格闘技なんだなという印象だけがうっすらと残りました。
それが、僕と柔術の最初の出会いでした。
−−−その後、春の総体が終わり、僕は柔道部を引退。
1年以上の期間は真面目に練習できなかったことや、やっとおもしろくなってきていた寝技を深掘りできずに引退してしまったことからいかんせん不完全燃焼ではあったものの、こればかりは仕方がないです。
引退後は警察官になるための試験勉強に精を出し、なんとか大阪府警に合格。
卒業して地元を離れ、大阪の地で社会人としてのスタートを切りました。
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